と思ったけど、人の認識について。

(下の記事が先です)
暑くてやる気が失せていたけど、なんとなく筆が(正確にはキーボードを叩く指が)のってきたので、ちょっと書いてみようかな。やっぱやめよかな。(どっちやねん)


結局さぁ(いきなり何なんだ…)、俺らみたいに組織の歯車になって働いてる人間の大半なんてさ、一人じゃ何にもできない臆病者でしかない気がするわけよ。
しかもその組織すら、じつはその実態は危うい。
そもそも組織って何なんだ?
そりゃ辞書で調べりゃ誰もが納得できるような定義があるんだろうけど(面倒だからいちいち調べないけど)、実物としてあるわけじゃないじゃん。
俺ら個々が寄り集まって組織を作って、そこに属していると勝手に決めて、勝手に安心してる。
そこにいったい何の後ろ盾があるんだろう。
平和な状況下でしか通用しない社会のルールを前提にして効率を求めているだけと思ってしまうのは俺だけか。

組織があると認識するからそこに属し、安心する。
国があると思うから、税を払う。国ってそもそも何だよ。

全ては、俺らが日常を、個々を、群れを、あらゆる森羅万象をどう認識するかで決まってしまう。
それはある意味完全なる自由で、ものすごい束縛だ。


組織の話に戻るけど、一方で、組織に属さずに独力で社会を渡り歩いている人もたくさん世の中にはいるわけで。
そんな人を見ると俺はすごくかっこよく見てしまう。
きっと心のどこかで憧れている。


そんな彼らから見たら、組織という認識に束縛されている俺らをどう見るんだろう。
隣の芝生は青いのか。
それとも「ああ、あっち側じゃなくて良かった」と思うだけかな?
まあ「独力で頑張ってる人」と「組織で群れている人」と大きくカテゴライズしてしまっている時点で俺もくだらない認識に縛られてるんだけどさー。なんだかなー


けどこれは俺の勝手な思い込みだけど、組織に属さない人にはある種の「強さ」がある気がする。
ここで言う強さってのは一般的な意味の強さじゃない。(弱さの反対語ってことじゃなくってこと)
まあ「強さ」についてもいろいろと思うところがあるけれども長くなりそうだし今は書かないが、強さを手に入れることは果たしてその人にどんな意味をもたらすんだろうねぇ。


なんか思いのままに書いてしまって他人が読んだらワケわかんねーことこの上ないだろうけど、なんとなくすっきりしたので唐突に今日の日記は終わる。以上。